信長以前の実質天下人「三好長慶」の全盛期の居城で、晩年飯盛山城へ移るまでの本城とされた芥川山城。飯盛山城に比べて知名度は低いのですが、理由としては平成に入ってから本格調査が行われた理由もあるのかも。ただ一般的な知名度が低いためか当時の遺構が残ってたりして、結構見ごたえのある山城跡です。
ただハイキングと言っても、山自体が「私有地」で生活道を通って登っていく形となります。標高が高い山でもないので気負うほどではないですが、「私有地」「生活道を通る」は注意しておくべきかな。なお頂上登る道中に見ごたえのある遺構が数並ぶので、あれどこだったかな?と探しながら巡らなくてもOKなのはいいとこです。
ざっくりとした道順
山の手前までは公共交通機関で、詳細は下から調べれます。
「塚脇」バス停を降りたら、下のような看板があるのでスマホで撮影しておくと良いですね。
①⇒③の間は生活道を通ります、狭い道幅ですがほぼ迷うことなく一本道なのでわかりやすいはずです。
「塚脇」バス停を北に歩くと、ポイントポイントで上のように案内板が指し示してくれます。こちらの案内板を進むと暫くして、「黄金の里」という老人ホームの分岐を左に進んでいきます。
そうしてしばらく歩くと、芥川山城地図の③番で塚脇ルートへ入るコースが現れます。ここはわかりやすく登っていく道と分かれていますので、迷うこともないはず。
もうここからは登っていくわけですが、道中の石垣は江戸時代に組まれたものとのこと。進んで道なりに行くと、東曲輪の「猪鼻」あたりに出て少し拓けます。井戸があるので目印にしやすい場所です、なおここで西方面に向かうと「土橋」「堅土塁」が連続して現れます。
ここも一本道で迷うことはほぼないはず、若干狭いところはありますのでそこは注意。面白いのは道中は細く曲がりくねってるところ、いかに実戦的な作りだったのか石もごろごろしています。そして地図上⑦あたりに到着、西に進めば物見の郭があったであろうちょっとした平面があります。
ここに来る道中でいたるところに、郭があったとみられる平坦部分が山中でありながら多数見られます。この辺りを見ていると、政治の中心としての色合いが強いのではと思われているのでしょうね。そしてさあ頂上です。
頂上に上がる階段の手前、西側方面に藪に隠れた道がありましたがいったんスルー。事前情報では先ほどの展望として開けてる部分が見晴らしいい、ということでしたが頂上のほうが広くて見晴らしもっといいですw
頂上付近も発掘が進んでるの主郭あたりの部分は、拓けているので休憩にはここまで登るといいですね。頂上には「三好長慶」を祭る祠が鎮座されていますし、「三好長慶」押しのあれやこれやが多いです(笑)
ここで休憩後少し道を離れ、上記地図の⑦から④方面へ向かってみることにしました。一気に下ることになりますが、ここは見せ場としてのおおきな石垣が組まれた跡が残存しています。谷筋を道として利用し、来訪する客に石垣を見せることで城の威容と威厳を感じさせたんでしょうか?
ここから下ったところで山の西側面に上がっていくのですが、峡谷がありかなり角度が厳しくコワかったです。天然の川を防備のかなめにする部分は稲葉山城(金華山城)と似てるなーと感じるところがあります。さて何とか遭難せず乗り越えた先に、大きな堀切が2つ出てきました。
ここの堀切は西側からの防御ということでしょう、峡谷から攻め上がるのは難しいです。なおかなり道があやふやなので、こちらは注意しておくといいと思います。
さて最後に地図⑥に戻って、北へ抜けてみることにします。井戸があるので、そちらを目安に北へ向かいます。ただ井戸以降は道があやふやになってってわかりにくく、さらに山を抜けるまでは結構狭い道が続くので注意が必要です。
これで芥川山城を南から北へ縦断するという形、標高は高くないですが政治の中心ということでしょう?想像以上に広い縄張りでした。上にも書きましたが稲葉山城をイメージが重なる部分はあり、この二城は同年代の城なんですよね。眼前に広い平野を見渡せ、後背は急峻な川・渓谷で守るという形。
信長は尾張から稲葉山城に移り、上洛後に畿内征伐の拠点で芥川山城に入城したと言い伝えあります。もしかしたら「安土城はこの2つの城をモチーフに作られた城なのかな~」という想像なんかあってもいいかな。などと思いながらの芥川山城訪問記事でした。
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